低周波治療器

今日は、少し、尾籠な話をしたい。
よく、低周波治療器の説明書に「局部には使用しないでください。」と注意書きがある。
ああいうことを書いているということは、何か秘密があるのではないか、むしろ、昇天するのではないか、と勘ぐってみたくなる。
こういう具合で、この注意書きは、ひょっとすると、局部に使用すると昇天することをわざと隠しているのではないかと私は感じた。
そこで、局部に徐々に近づけて、低周波治療器のパッドを装着し、いろいろなモードで使用してみた。
しかし、結果は悲惨であった。
まず、刺激が強すぎて痛い痛い。それに、足はしびれるし、そのため、翌日は、歩くにも支障がでる。
やはり、低周波治療器を局部に使用してはだめだと痛感した。
低周波治療器は正しく使用しましょう。

公立中学校

公立中学校。一度はテーマにしてみたかった対象である。
私は、幸いにして、私立の中高一貫校に入ったので、公立中学校の怖さを知らない。
いまはどうなのか知らないが、公立中学校の前を通り過ぎると、「前へならえ!」と号令をかけられている中学生を目撃したり、炎天下、熱中症になる直前の状態で、ブカツをしている中学生が見受けられる。
さて、この国の労働人口の大部分は、国又は自治体若しくは企業に雇用されている。したがって、業務規律に従い、業務命令を組織的に実行する必要性がある。
ところで、この国の明治維新直後、工場ではたびたび従業員が勝手に離席してぶらぶらしたりして困った時期があったらしい。
そこで、義務教育で国民に集団行動する習慣を根付かせることとなったらしい。
今では、経済的奴隷になっている大半の国民は、生来的には有していない「集団行動性向」を義務教育によって自然に涵養させられているのである。この習慣は、現在では余りにも、当たり前になってしまい、意識的に考察の対象とする機会が少ない。
結局、義務教育やブカツは、企業経営者の業務命令を意識しないで実行に移せるための重要な道具なのである。
しかし、最近は、終身雇用制な年功序列制などはとうの昔に崩壊し、大部分の40才以上の国民は、経済的奴隷として、税金や各種保険料を源泉徴収されて、従容として、定年まで、余剰経済家畜としていじめ抜かれ、退職後は、物言わぬ老人となって人生を終えるわけである。

さて、福島第一原発事故が全く収束が着かないまま間もなく4年が経過しようとしている時節柄、次回は、「食べて応援」=「死んで応援」をテーマにしてみたい。

T大学総合図書館

ここは、在学中、私の勉強場所であった。1階、中2階、2階、3階、4階と座席があった。
これらの場所に集う人々には、文系では、六法を置いて参考書にラインマーカーをひいている人、理系では、インテグラル記号が複雑怪奇に記載された紙と格闘している人などがいた。
中には、しらひげのおじいさんもいた。
今は知らないが、1階中央から3階まで赤絨毯が敷かれていた。
私の特等席は、中2階を見下ろせる2階の机であった。
今もあるのだろうか。

小早川光郎先生

昔、いや今でもか、小早川光郎先生という行政法の大家がいた。
私は、公定力なるものに非常な疑問を抱いていた。
しかし、小早川先生は、それは、「抗告訴訟の排他的管轄」の問題に過ぎない。起訴責任が被処分者又は法的に保護(少し誤魔化しました。原告適格の問題で改正法でも大きく改正された点です。)された利益を害された者に負担させていることを表現したに過ぎない。」とあっさり上記疑問を氷解させてくれた。
たしか、税金の滞納処分による差押え事案と賃貸借終了に基づく建物明渡しの民事執行の事案を対比して、わかりやすく説明していただいた記憶がある。
とはいえ、現在でも、立法政策として、抗告訴訟の排他的管轄や不服審査前置主義を広く定めると、国民の裁判を受ける権利に影響があるのは当然で、これらを仕組みに取り込む立法には何らかの制限を設けるべきものと思う。

西田典之先生

大学に西田典之先生という刑事法の大家がおられた。
3年次に、私は西田ゼミに入らせていただいた。
西田先生は、「考える刑法」という演習書を使って、ゼミを主催されていた。
しかし、ゼミの議論の程度は高く、私にとっては、「考え込む刑法」であった。
私が西田先生手紙を出すと(小平市におられたと思う。)、西田先生から激励の葉書がきた。
大変、感激したのを記憶している。
この葉書は、今でも私の宝物の一つで、他の宝物と一緒に大切に保管してある。
ときどき、文面を読み返している。
しかし、西田先生は、もうお亡くなりになった。
たばこを吸うことが悪影響したのかもしれない。
西田先生のご冥福をお祈りします。

T大学H学部の優の話

 T大学H学部の「優」の話をしたい。
 ここでいう「優」は、成績の「優」である。この学部では、成績は、上から順に「優」、「良上(上の記載は良の右斜め上につく)」、「良」、「可」及び「不可」であった。現在は、「優上」、「優」、「良」、「可」及び「不可」であるらしい。
 さて、30年前の「優」の認定は、大変に厳しく、そのため、「優」を拝領することは、学生には羨望の的であった。
「優」を取得単位全体の三分の二拝領できれば、「学部助手」になれ、助教授への途が拓かれていた。
 また、官庁の採用においても、試験はそれほど難しくなく(判例を覚えればいい。)、「優」の数で決まったといっていい。
さらに、当時の官庁の出世の行方は、既に「優」の数で決まっていたそうだ。
 なお、この成績制度には、不思議なものがあった。それは、「優可相殺」である。
すなわち、一つの「可」を取ってしまうと、一つの「優」と相殺され、「良」が二つに変化するのである。
 また、T大学H学部では、他学部の単位も取れたのだが、教授陣は、他学部の「優」の価値を余り認めかったとのことである。
やはり、他学部の「優」は取得が簡単であるし、しかも、T大学H学部本流の「優」ではないかららしい。 
 さあ、私は、このT大学H学部卒業の身である。卒業から25年を超えた今、一つの自慢をすることをお許しいただきたい。
私は、講義を受ける際に、基本書、判例百選、六法をノートの横において、教授の声を録音した(録音を禁止していた教授もいたが傘に隠して録音した。
当時はICレコーダーもなくカセットテープだったので非常に苦労した思い出がある。)。
そして、全身全霊で講義ノートを作成していった。
さらに、講義を受けた後、下宿や総合図書館で、録音した教授のお声を再生して、ノートを補充し、判例を検索した。
その甲斐もあってか、私の学生票(当時の成績表のこと)には、「優」が16個、「良上」も数個が記載されていた。
 本当に感激したものである。しかし、私は不覚にも「可」を1個取得してしまった。したがって、「優可相殺」により、「優」は15個になってしまったことはかえすがえすも悔しいことであった。
三分の二基準に僅かに届いていなかった。
 さて、この「優」については、「全優伝説」の学生というものがある。
 T大学H学部で取得した単位全部が「優」の学生である。近頃は山口真由さんが有名だが、戦後「全優」を獲得した人は僅かしかいない。
 これが、大学の本当にあるべき姿だと私は現在でも確信している。